自然の中に生きる2007-08-01 20:20:22

雨の緑の森を行く
学生の時に、東洋哲学の先生が、西洋においては自然とは「克服」するものであり、東洋においては「共生」するものである、と言われた。

高名な解剖学者に養老孟司という人がいる。数年前にはこの人の「バカの壁」という本が大ベストセラーになったが、私はこの本を数ヶ月前に初めて読み、その後数冊同氏の著作を読んだところで、私はこの人の「唯脳論」にある種衝撃を受けた訳です。いわく、すべての人工物の仕組みは脳の仕組みを投影したものである。人は己の意のままにならぬ自然から開放されるために人工物で世界を覆おうとする。そのようにしてできた世界が脳化社会。すなわち、人工空間の成立、仮想空間の成立、自然の排除。

考えてみたら、私が日常いる世界は、自分や他人の脳がコントロールしない世界であり得ないということ。人が作った建造物や構造の中から出る事はなく、すべて人工的に理解ができる範疇で日々を暮らしている。

山に登るということは、この「脳化社会」からほんの少し、逸脱するボーダーラインを彷徨うこと。山で感じる不安や恐怖は、常に自分のコントロールが効かない部分に対してであり、簡単に言えば、雪や風や霧。それでも技術やギアでこれを「克服」しようとする訳だ。

で、ブータンで感じたこと。それは、ブータンは「脳化社会」からほど遠く(もちろんそのような側面が全く無い訳では無いけれど)、自然を排除しコントロールするのではなく、自然を受入れ、共存する世界であるということ。自然は畏れるものであり、かつ自分が含まれる世界。正しく東洋の自然との「共生」が、ここにはある、と感じた。それ故の、「業」であり、「祈り」の世界であろう。

偶然にも、養老氏はブータンを理想の楽園と考えているそうである。なんでも、趣味の昆虫採集の楽園だからとか。

ブータン滞在中案内人をしてくれたブータン人のT氏が、日本語で「チョウチョ」というので、何で知ってるの?と問うたら、Butterfly collectorの日本人のリエゾンをしたことがあるそうで、Mr. Yoroか、と聞いたらこれはさすがに違った。そしてそのButterfly Collectorの日本人は、沢山のチョウチョをブータンから持ち出して、今ではブータンに入国できないそうである。

コメント

_ ganesh ― 2007-08-02 01:38:28

私は西洋的でした···養老先生、大学の時、単位くれと答案用紙に書いたらくれると言うので書いたことあったな~(恥)授業はわからなかったけど面白かったですよー。

_ turtle*tortoise ― 2007-08-02 23:33:38

え、よーろー先生の授業受けてたの?羨ましい。でも、大学生の時にそういうチャンスがあっても有り難みがなかったかもしれないけど。学部生の時はてんで勉強する気が無かったもので。。。

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